羊水塞栓による死か,失血死か 〈最高裁 2009 年 10 月〉

1.事案の概要

 27歳,1回経産婦,5年前に子宮頸部円錐切除術の既往あり.妊娠37週,前期破水にて朝よりオキシトシンによる分娩誘発を開始し,同日午後11時,経過順調で3,050gの男児を分娩し,9分後に胎盤娩出した.500mLの産後出血がみられ,子宮双手圧迫,子宮筋層内PGF2α注射を行い止血確認した.分娩後40分頃より呼吸困難の訴え出現し,胎盤娩出後の出血量も230mLとやや多く,酸素吸入,子宮収縮薬の持続点滴を続行した.30分後に180mLの出血を認めるも血圧 102/72㎜Hg であり,その後は出血もなく経過したが,分娩後3時間20分,突然,意識消失を起こした. この際,外出血は付着程度であり,血圧 88/50㎜Hg,SpO2 97%であった.その直後, 心肺停止状態となり除細動施行した.その際,腟外に凝血750mLを排出した.救命 救急センターに搬送するもDICおよび多臓器不全により分娩約10時間後に死亡した. 司法解剖では,①出血性ショック,②子宮下部裂傷(2.7㎝と1㎝の裂傷でそれぞれの部位に縫合糸の端が見える),③分娩時損傷であった.肺組織にアルシャンブルー陽性所見なく,透析中の血液ではシアリルTn抗原,亜鉛コプロポルフィリンとも正常値(旧基準)で羊水塞栓症の所見なしと鑑定された.

 

2.紛争経過および裁判所の判断

 本件は,刑事事件は羊水塞栓症との鑑定を受けて不起訴となったものの,民事事件では,患者側が,妊産婦死亡の原因は羊水塞栓症ではなく子宮下部裂傷からの出血性ショックによるものであると主張し,損害賠償請求した.

 第1審で医療機関側は,突然の意識消失までの総出血量910mLに対し輸液を1,500mL行っており出血性ショックは考えにくいと主張し,臨床的羊水塞栓症に該当するとの意見書などの証拠を提出したが,患者側の請求が認められた.

 第2審で医療機関側は,羊水塞栓症の診断を支持する意見書の他,本事例を検察庁が不起訴とする根拠とした鑑定書を提出して反論するも,裁判所は,子宮下部裂傷による出血が死因であると判断した.なお,同鑑定書は,新羊水塞栓症スコアによる臨床的羊水塞栓症の診断基準を満たすこと,アルシャンブルー染色では肺組織に少量・子宮血管に大量の羊水の流入所見を認めたこと(肺組織の染色程度やシアリル Tn 抗原の正常値は輸血・輸液による希釈のためであること),亜鉛コプロポルフィリンが高値であったこと(実測値1.83pmol/mL:新基準での正常値1.6pmol/mL以下),補体価が高値であったことより,確定的羊水塞栓症と判断されるとするものであった.

 医療機関側は,平成18年度妊産婦死亡研究班報告書(臨床診断の羊水塞栓症の見落としの多さを指摘)など内外の文献を引用し,羊水塞栓症による死亡と主張して最高裁に上告受理申立てを行ったが受理されず,医療機関側の敗訴が確定した.

 

3.臨床的問題点

対応策

 羊水塞栓症のより強固な証明が本症例では必要と考えられる.妊産婦死亡の3分の1は羊水塞栓症が原因であることを念頭に,分娩中や分娩後の急性循環不全(心肺虚脱),DIC型の大量出血などにより妊産婦死亡が発生した場合には,羊水塞栓症を考慮した対応として母体血清の保存(なるべく早期に分離し遮光)が推奨される.発症早期の血液検査(浜松医大の協力で行う医会血清検査事業),肺や子宮体部筋層の病理検査で羊水成分の母体への流入を確認することが重要である.本事例では,司法解剖にもかかわらず肺や子宮筋の特殊染色が行われたが,通常,司法解剖では臓器保存されないことも多く,肉眼的な所見のみから結果が出されることもあり,司法解剖の結果は入手が困難であり,担当した医師にとって十分な医学的原因分析ができないことも多い.そのため,妊産婦死亡が発生した場合にはなるべく病理解剖を受けることが重要である.医会医療安全部会では,妊産婦死亡報告事業を2010年1月にスタートしているが,事例が発生した場合の「会員サポート」として病理解剖を行うための助言なども行っている.

 

4.法的視点

 民事責任と刑事責任は全く別の責任・手続であるため,民事上の損害賠償を請求された場合に,必ずしも刑事上の責任が問われるわけではなく,本件のように,羊水塞栓症とする鑑定結果を前提として刑事事件が不起訴とされた場合であっても,民事事件では異なる判断がなされる場合も少なくない.

 一般に,医療事件において民事上の損害賠償責任を問われたとしても,刑事責任まで問われる事例はかなり限定的である.刑事事件においては,検察官が的確な証拠によって有罪判決が得られる見込みが高い場合に限って起訴することとしていることや, 十分な犯罪の嫌疑がある場合でも検察官の裁量により起訴しないことを認める制度(起訴便宜主義)が採られていることによるものである.

 なお,本件は,最高裁判所に上告受理申立てがなされているが,最高裁判所で争うことができるのは,原判決に憲法解釈の誤りがあること,法律に定められた重大な訴訟手続の違反事由があること,判例に反する判断がある事件,その他の法令の解釈に関する重要な事項を含む事件に限られるものであるところ,これらに該当しなかったことから,最高裁判所での審理が行われるに至らなかった.また,上告審は,法律問題に関する審理を行い,原則として原判決で認定された事実を争うことはできない. そのため,訴訟となった場合には,第2審までの審理において,十分な主張立証を尽くすことが重要である