(7)具体的な事例(診療所において)

<事例1>

日本を旅行中の外国人が,突然強い下腹痛を認めた.以前母国の産婦人科で卵巣が腫れていると言われたことがあるので産婦人科クリニックを受診した.
①クリニックの事務職員は何をすればよい?
②医師は何をしたらよい?

Answer
①クリニックの事務職員は患者の国籍,滞在資格,保険の有無,そして何よりも日本語でのコミュニケーション力および対応言語を把握する.また,緊急性に応じて可能であれば,診察前に医療通訳を手配し,診療費とその支払い方法を説明,診察後に医薬品の購入方法を説明する.
②医師は応招義務に応じた適切な医療を提供し,必要であれば近隣の外国人対応医療 機関を紹介する.また,症状,渡航元や曝露状況から考慮すべき感染症対策を講じる

解説
①まず,患者が最初に出会う受付担当者(事務職員)の事前の準備と心構えが重要になる.
 実際の医療事務の業務内容が変わるかといえば,本質的には通常どおり,保険証の確認,患者さんからの情報提供,会計および院外薬局の紹介と,何の変わりもない(表3).

 ただし,国や地域によって医療機関の受診方法が異なるため,日本の「医療システム」の説明が必要になる.また,多くは日本語がうまく話せない(LJP:Limited Japanese Proficiency)ため,可能であれば医療通訳者,その調達が難しい場合は言語だけでも理解できる者に通訳を依頼するのが望ましい.特に外国語対応の需要が高いクリニックや病院では電話や端末を介して多言語対応が可能な遠隔医療通訳サービスと事前に契約することを考慮してもよい.
 日本の医療文化・医療習慣に不慣れな外国人に,「日本の医療システム」を説明することは難しいと思うが,外来受診においては,診療費と医薬品について明示することが重要である.特に,支払いに関するトラブル防止に最も重要なのは,診察前に想定される概算医療費を提示し,その支払い方法についても明確にすることである.また,事前に医療費の内容について説明し,患者さんに納得してもらい,書面にて同意を得ておくことが推奨される.
 医療費概算の算定・提示方法については,「外国人患者の受け入れのための医療機関向けマニュアル」(以後「マニュアル」)47頁に詳しく記載されているので,詳細は本稿では割愛するが,日本の公的医療保険未加入者の診療費はすなわち自由診療であり,その価格設定はそれぞれの医療機関の裁量に委ねられている.「マニュアル」42頁には「自院の経営方針や訪日外国旅行者患者対応にかかるコストなどを念頭に置きながら,自院における訪日外国旅行者患者の医療費についてどのように設定するか検討する」,と記載されており,事実上,保険点数の倍数に固執する必要はまったくない.ただし,何らかの根拠に基づいた価格設定は患者の同意を得るのに必要であると考えられる.
 診療費に合意を得られたら次に,支払い方法についても明確にする必要がある.海外では医療費の支払いにクレジットカードを含む多様なキャッシュレス対応が進んでおり,複数の現金以外の決済手段を準備しておくことは未払いを回避する1つの方法である.一方,海外旅行保険に関しても,旅行者が本国で加入した医療費支払い保証などが付帯していないものもある.日本入国後に加入できる国内の海外旅行保険に関しても上限額や様々な補償対象外事由が設定されているので,いずれにしても,現金およびクレジット決済などで請求額の100%を窓口で支払ってもらい,患者自身に保険会社と対応していただくことを勧める.
 滞りなく受診終了後,最後に必要となる対応は医薬品の購入である.処方箋を持参し,院外薬局で調剤してもらう医療用医薬品に関しては,事前に外国語で記載された地図などを準備していれば患者にも喜んでもらえる.また,処方箋が不要な一般用医薬品を販売している薬局・ドラッグストアなどに関しての説明も加われば,一層役に立つ資料になる.このような「多言語版地域医療マップ」などは各種専門職団体や自治体などの協力で作成できる地域共有の資源になる(「北海道における外国人患者受け入れに関する対応指針」20頁).最後になるが,医薬品に関しての留意点として,海外と日本では同じ製剤でも一般用と医療用の扱いが異なる場合や,承認された用法・用量・剤形が日本では承認されていない場合などもあるため,患者に追加で説明が必要になることもある.この点については日本薬剤師会も配布用の英語版ポスターも作成しているので,地域の薬剤師や薬剤師会にも協力してもらえる可能性がある(薬局内掲出用ポスター「薬剤師に聞いてください」).
②まずは,医師の応招義務について,「患者の国籍のみを理由として診療を拒むこと」は医師法19条1項の「正当な事由」として認められないのが一般的な解釈である(「マニュアル」29頁).言語の壁と応招義務についての判例や記述が散見できないため,可能な限り何らかの形態の医療通訳を使用することを強く推奨する.
 海外からの旅行者に関しては特に感染症に注意が必要である(医療の具体的な内容や本来優先されるべき緊急度に応じた処置は日本人の診療と同様に進めてよい).居住国,入国前の渡航歴および症状(発熱,咳,発疹,消化器症状)から感染症対策の必要性を判断する必要がある(「マニュアル」31頁).特筆すべきは結核である.良くも悪くも欧米諸国と比較して日本の罹患率が高いとの認識は正しいが,日本の届出率を1とした場合,フィリピン(24),インド(10),タイ(7.6),韓国(5.4),中国(4.1),台湾(4.0),シンガポール(3.3)と,訪日観光客の多いアジア圏の国々ではさらに頻度が高い(世界の結核,日本の結核:疫学情報センター2018.8.31).また,結核はHIV感染者の死亡の第一原因であり,近年は多剤耐性菌の増加も認められている(WHO Fact sheet, Tuberculosis, 18 September 2018).
 統計的に観光客の必要とする医療は1次医療施設で完結する場合が多いが,より高度・広範囲な医療が必要,または外国人患者の受入れ体制が不十分であると思われる場合,政府観光局の「外国人旅行者受け入れ医療機関」に掲載されている医院・病院への紹介を考えてもよい.積極的に外国人患者を受け入れている近隣の医療機関を事前に把握しておくことが望ましい(図10).

引用
1)外国人患者の受入れのための医療機関向けマニュアル.平成30年度厚生労働省政策科学推進研究事業.「外国人患者の受入環境整備に関する研究」研究班.https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000501085.pdf
2)北海道における外国人患者受け入れに関する対応指針.北海道保健福祉部.http://www.pref.hokkaido.lg.jp/hf/iyk/shishin.pdf
3)薬局内掲出用ポスター「薬剤師に聞いてください」.日本薬剤師会.https://www.nichiyaku. or.jp/assets/uploads/pr-activity/180607.pdf
4)外国人向け多言語説明資料一覧.「医療機関における外国人患者受入れ環境整備事業」.一般財団法人日本医療教育財団.https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000056789.html
5)外国人旅行者受け入れ医療機関.https://www.jnto.go.jp/emergency/jpn/mi_guide.html
6)医療機関の利用ガイド.「具合の悪くなったときに役立つガイドブック」(観光庁).https://www.jnto.go.jp/emergency/common/pdf/guide_jpn.pdf