人工授精実施時に婚姻関係を戸籍謄本などで確認すべきとして医師が訴えられた事例 〈T 地裁 2012 年 11 月〉

1.事案の概要

 原告Aは夫Bと婚姻関係にある.Bは被告Cと不貞関係にあった.CはBからの精子提供を受け,産婦人科医Dは被告Bを配偶者とするCからの申告により人工授精同意書を作成して人工授精を実施した.Cは女児を妊娠・出産し,Bはその女児を認知した.

 

2.紛争経過および裁判所の判断

 原告AはBおよびCに対し,不法行為に基づく損害賠償請求をした.さらに原告Aは,医師Dに対しても,戸籍謄本などによる婚姻関係の確認をせずに人工授精を施行したことについて,共同不法行為にあたるとして損害賠償請求したが,裁判所は医師Dの責任を否定し請求を斥けた.

 

3.臨床的問題点

不妊治療で精子を用いる際の注意点

 夫以外の男性の精子を用いて人工授精を施行したとして訴えられた事案であるが, 人工授精の同意書を文書で得ており,裁判においても証拠として認められた.

 日本産科婦人科学会倫理委員会は,夫婦を対象とした通常の人工授精に関する見解を発表していないが,「体外受精・胚移植に関する見解」に準ずることが求められ るだろう.同見解では,「夫婦」に対して,事前に文書を用いて説明し,了解を得た上で同意を取得し,同意文書を保管することを求めている.なお,2006年に戸籍などによる婚姻の確認は不要とされ,2014年には「婚姻しており」の表現が削除され,事実婚の夫婦に対しても実施可能とされた.

 人工授精や体外受精など,不妊治療で精子を用いる場合,夫のカルテも作成して夫の氏名や住所が確認できるようにしておくべきである.さらに,妻が夫の精液を持参する場合,夫による直筆の署名のある「精液提出委任状」を毎回一緒に提出させることによって,本事案のようなトラブルに巻き込まれるリスクを減らすことができる.

不妊治療の対象となる「夫婦」に関する注意点

 上述のように,「法律婚」以外に「事実婚」の夫婦が不妊治療の対象となる.事実婚とは, 婚姻届を提出せず,婚姻の意思をもって夫婦の実態を有する共同生活をしている状態 のことをいう.

 事実婚の夫婦の間に生まれた子(婚外子)は「非嫡出子」とされ,父子関係は法律上当然には生じず,法律上の父子関係を生じさせるためには,別途認知をすることが必要である.

 事実婚であっても,法律婚と同様に,同居の義務,扶養の義務,婚姻費用(生活費)の分担義務は認められると考えられている.

 

4.法的視点

別居の法律婚夫婦はしばしば不妊治療の対象となるが,別居の事実婚夫婦は成立するか?成立するとすれば,その条件は?

 事実婚の定義は様々であるが,通常,事実婚では共同生活を営んでいることが前提となるところ,共同生活を営んでいることは,現行法上,住民票に同一世帯として「未届けの夫(妻)」などと記載することで証明することができる(ただし記載は任意).しかし,例えば単身赴任などで同居しておらず同一世帯ではない場合など,「別居の事実婚」状態は成立し得るし,その証明ないし判断は困難である.

 人工授精や体外受精を行うにあたり男女双方のカルテを作成した時,その氏と住所が異なる場合には,当該男女は,別居の事実婚であるか,全く婚姻関係がないか(不貞関係を含む)のいずれかであるところ,不貞関係であった場合には,本件のように産婦人科医が本来の配偶者から責任を追及され訴訟に巻き込まれる可能性がある.より慎重に対応するとすれば,男女双方の戸籍などを提出させることで,本来の配偶者がいないこと(不貞関係でないこと)を確認することはできるが,果たして医師に戸籍などで身分関係を調査する義務を課すべきだろうか.

 この問題についての確立された見解はないものの,本件類似の事例(体外受精時に戸籍などで確認すべきとして医師が提訴された事例,2013年判決)における以下の判示が参考になる.

「被告医師は,C子に対して問診を行い,C子から本件同意書の提出を受けた段階で, B男とC子が婚姻していないことを知ったことが認められるものの,だからといって,B男と原告A子が婚姻しており,本件体外受精が原告の権利または利益を侵害することを予見することができたとはいえず,したがって,B男およびC子に対して戸籍謄本を提出させるなどして身分関係を調査する義務があったとはいえないから,それを怠ったことについて,被告に過失があったとはいえない.」

 同裁判例によれば,医師が人工授精や体外受精を希望する男女が婚姻していないことを知ったとしても,通常は不貞関係にあるとまでは予見できないため,戸籍などを 提出させるなどして調査しなかったことについて,直ちに過失を問われることはない. 一方で,当事者から事情を聞くなどして,当該男女が不貞関係にあり本来の配偶者が いることを予見できるような事情があったにもかかわらず,医師が調査を尽くさないまま,当該男女の要望どおりに人工授精や体外受精を行った場合には,責任を問われる可能性がある.

 本件のような不貞関係にある男女の場合に限らず,夫の同意の有効性,離婚後や夫の死後の胚移植の問題など倫理的・法的問題を孕むため,人工授精や体外受精を行う医師は,思わぬところで紛争に巻き込まれることがある.前述の注意点のとおり,少なくとも,関係学会の指針・見解などをアップデートし,それらに沿った対応をしておくことが求められる.