1. なぜ論文にしなければならないか:書かなければ何も残らない

科学史の上で、「軸の時代」(Aschenzeit)という概念がある。21世紀現在、我々が共有する普遍的概念や価値観は農業生産が一定の水準に達し、中央集権によって思索する余裕のある人々と、文字記録が可能となった二千数百年前に生まれた。古代ギリシアの哲学、数学、ローマ法、ユダヤ・キリスト教の一神教,東洋でも仏教思想や孔孟,老荘の教えはほぼ同じ時期に出現し、現在に至っている。医学の世界でもヒポクラテス・ガレノスに始まる西洋医学と、傷寒論・黄帝内経にはじまる東洋医学は膨大な臨床知見とから,患者の病態をよりよく説明する仮説と適切な予防あるいは治療的介入を求めて現代医学を形作ってきた。(図)

Galenusの脈診の教科書(14世紀)

A.Flemming によるペニシリン発見(1928)

 

有名な「はじめに言葉ありき。IN PRINCIPIO ERAT VERBUM(ヨハネによる福音書)」のように、我々は言葉によってのみ、個人的な経験を時間と空間を越えて残すことができる。我々 産婦人科医が日々の臨床あるいは研究活動でいかに重要な知見を得ても、これを論文として残さない限り、存在しないことと変わりがない。康永 秀生教授は「論文に書かなければ、何も残らない」(「必ずアクセプトされる医学英語論文 完全攻略50の鉄則」金原出版2016)で述べておられるが正にその通りなのである。

しかし、症例報告であれ、臨床統計であれ論文にするにはそれまでに報告されていない何らかの新しい事実や、解釈、新しい概念の創造が要求される。小さな発見であっても、ヒポクラテスから連綿と続く医学智の体系に寄与するという志なしには、論文を世に出すべきではない。産婦人科を含む多くの領域で、専門医あるいは指導医取得のために、試験や経験症例数のみならず論文提出を求める背景には、問題意識をもって日々の臨床に従事する医師を評価するという価値観がある。その意味において、昨今、世間を賑わしたSTAP細胞やデイオバン事件のように捏造や事実に反する報告は知の体系に対する犯罪行為といってよい。しかしながら、科学の本質は仮説と検証の両輪なので、誤った報告は必ず追試され否定される。その意味において、論文として残すには投稿前に十分に内容を吟味し、可能な限り完成度の高いものとせねばならない。

新規性とは何か

新たな発明は特許で保護を受けることができる。医学研究上の発明も勿論特許権を求めることができるが、多くの場合は名誉が優先するであろう。実際、新たな診断法や手術法の発明は特許による本人や所属機関の経済的利益以上に人類の幸福に貢献するし、知られなかった副作用や合併症による危険の報告はこれによる犠牲者を防ぐという意味で非常に大きな意味がある。しかし、いずれの場合も、先行研究をふまえ、独自性を示さねば先取権を主張できない。そのためには、投稿前に類似の報告がないかを十分に確認する必要がある。筆者が研修医,院生だった頃は、図書館で分厚いIndex medicusと格闘したものだが、現在では有り難いことに英文ではPubMed,日本語では医学中央雑誌をOn lineで検索できる。あるいは、当該疾患をgoogle scholarで検索して類似論文を探す。Abstractだけでなく、本文をダウンロードして通読し、自分のデータの新規性を確認する。その時点で、何ら目新しいものがなければ投稿する価値はないし、仮に投稿してもレフェリーは同じような検索エンジンで類似論文を検索するのでボツになる可能性が高い。既出論文を無視して論文とした場合、優しいレフェリーは善意に解釈して不勉強、厳しいレフェリーからはアンフェアアクトと見なされるので必ず十分な検索を行うことが重要である。