平成15年12月8日放送
  妊娠と水銀中毒
  社団法人日本産婦人科医会幹事 宮城 悦子
 

  平成15年6月3日に、厚生労働省薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会 乳肉水産食品・毒性合同部会より、「水銀を含有する魚貝類等の摂取に関する注意事項」が通知され、マスメディアでも大きく取り上げられ話題となりました。その内容は、一部の魚介類等は、食物連鎖により蓄積することにより人の健康、特に胎児に影響を及ぼす恐れがある高いレベルの水銀を含有しており、妊娠している方、またはその可能性のある方については、魚介類等の摂食について、次のことに注意することが望ましいとするものです。具体的には、これまで収集されたデータから、バンドウイルカについては、一回60−80gとして2ヶ月に1回以下、ツチクジラ、コビレゴンドウ、マッコウクジラおよびサメの筋肉については、一回60〜80gとして週に1回以下にすることが望ましい。またメカジキ、キンメダイについては、一回60−80gとして週に2回以下にすることが望ましいとしています。なお、この60−80gという数字は、おおむね市販されている切り身の一切れに相当します。本日は、この通知がなされた背景となる妊婦と水銀中毒に関するこれまでの知見の概略、欧米における状況、今後の妊婦の魚介類摂取指導の要点について説明させていただきます。

 水銀の生物への有毒性はメチル水銀の形で摂取されたときに起こるとされています。現在われわれを取り巻く環境中の水銀はいたるところに存在し、大気中水銀の主要発生源は地殻からのガス噴出によるもので、その量は年間2700−6000トンに達し、また人工的汚染源として大気中に放出される全世界の総水銀量は2000−3000トンとされています。人工的な水銀放出が限られた地域に生じた場合には、非常に大きな影響が現れることになります。無機水銀からメチル化合物への水銀の化学変換は、非酵素的あるいは微生物の作用によっておこり、一旦メチル水銀の形で放出されると、速やかな拡散と蛋白との強い結合性によって食物連鎖系へと組み込まれていきます。このような食物連鎖による生物学的蓄積の結果、最も高いレベルの水銀が、淡水魚のマスや海洋産のマグロ、メカジキ、サメなど肉食性魚類の組織に見出されています。
 今までの動物実験の結果より、神経系はメチル水銀の標的器官であり、臨床的・疫学的研究からも、胎児のほうが成人よりメチル水銀の毒性作用に対しより感受性が高いことが示唆されています。メチル水銀は、アミノ酸に結合して胎盤を容易に通過し、胎児に蓄積されます。その結果、胎児期のメチル水銀曝露は、正常な神経細胞の発達に影響し、脳の構造上の変化、異所性細胞の出現、脳の萎縮を引き起こしていくとされています。

 1950年代日本において、阿賀野川水銀中毒として知られる水俣病が発生し、1960年に初めて胎児性水俣病が報告されました。この時の汚染は、今回報じられた摂取警告レベルとは比較にならない高レベルの曝露であり、64名の胎児性水俣病が診断され、その症状は脳性麻痺様の症状と知的障害で、メチル水銀の胎児への影響に関する初の報告となりました。

 その後、1970年代にイラクのある農村で使用した殺虫剤が多量のメチル水銀を含んでいたことから、メチル水銀で汚染された小麦で作ったパンを食べた農民がメチル水銀に曝露され、村民6530人中459人が水銀中毒で死亡するという事件が起こりました。このメチル水銀中毒で、様々な年齢に対する影響を調べた結果、特に妊娠中のメチル水銀の曝露量とその出生児の神経学的異常及び運動異常に関する用量反応関係が算出されました。これによると、母親の毛髪水銀濃度が70ppm以上では胎児の神経学的障害が30%以上で現れ、10-20ppmという比較的低濃度の曝露でも、児の運動発達遅滞の頻度が自然発生頻度を超え、5%の危険があることが示唆されました。その後、ニュージーランドやフェロー諸島におけるコホート研究の結果等をふまえ、WHOでは1990年の環境保健クライテリアのなかで、健康に影響がないとされている毛髪水銀値は、成人では50ppmであるが、妊娠女性の場合は10ppm以下が望ましいとしています。実際に欧米では、かなり厳しい魚介類摂取の勧告が出されています。たとえば米国FDAは、妊婦や妊娠を考えている女性、また授乳中の母親や乳幼児に対して、サメ、メカジキ、サワラ、アマダイの摂取を避けるとともに、その他の魚も週に12オンス、約340gとすべきとの食事指導勧告を2001年に行いました。その後、イギリス、カナダ、オーストラリア、ノルウエイなどでも相次いで魚介類摂取に関する食事指導勧告が出されています。しかし、今年Lancetに発表された、住民の85%が毎日魚を食べるセーシェルにおけるコホートスタディーでは、1989年から1990年生まれの約700名の児の発達を経時的に調査した結果、妊娠中の母体毛髪中のメチル水銀濃度と児の発達予後とは関係ないと報告されています。このように、低濃度の水銀曝露の児への影響については異なった知見が報告されており、今後は様々地域でさらに詳細な疫学的検討が慎重に行われるべきであると考えられます。

 さて、日本人は現在1日平均約8マイクログラムの水銀を摂取しており、その85%が魚介類からと考えられます。今回の厚生労働省からの通知は母体の毛髪水銀値が胎児に影響を及ぼす値を超えないような水銀摂取量を計算し、さらに安全係数としてその10分の1以下になるよう水銀耐用摂取量が算出されたものです。実際には水銀含有量の多い魚介類を持続的に大量に摂取しない限り、この耐用摂取量を超えるものではありません。今後食事等を介した低濃度メチル水銀の曝露について、日本人に関する大規模な疫学調査が必要と考えられますが、今回公表された種類以外の魚介類等にあっては、現段階で水銀による健康への悪影響が一般に懸念されるようなデータはありません。食事指導にあたっては魚介類が優れた栄養成分を含んでいるため、一般成人での摂食の減少につながらないように正確に理解していただくことも重要です。

 現場の産婦人科医師が、妊婦の栄養指導や魚介類摂取時の不安について質問を受けた際などの対応には、厚生労働省医薬局食品保健部基準化より出されたホームページの内容が大変役に立ちます。平成15年6月3日に公表された「水銀を含有する魚介類等の摂食に関する注意事項」についてQ&A形式でわかりやすい説明がなされています。例えば、「注意事項にある魚介類等を食べすぎてしまった場合はどうすればよいか」との問いに対しては、「次の週やその次の週に注意事項にある魚介類等の量を減らして下さい。一回に食べる量が少なければその回数は多くしても差し支えありませんが、一回に食べる量が多ければその回数は少なくすることが必要です」との具体的対応が記載されています。また、授乳中の母親の魚介類等の摂取については、現在のところ母乳に移行する水銀の量は母親の水銀の量に比べて少ないことなどから、水銀による健康リスクが特に高いのは妊娠中であり、授乳中のリスクは低いと考えられていると回答しています。さらに、マグロが注意事項の対象とならなかった理由については、いろいろな種類のマグロの含有水銀量の検査結果データを基に討議され、水銀量が比較的高いものであっても、試算結果などからみて、マグロの摂食を通じた水銀による健康影響は想定しがたいとしています。

 繰り返しになりますが、魚介類は良質なタンパク質を多く含み、不飽和脂肪酸が多く含まれ、微量栄養素の摂取源であるなど、妊娠している方にとっても重要な食材であります。過剰な水銀暴露への予防的見地から公表された今回の注意事項を正確にご理解いただいた上での適切な栄養指導をお願い申し上げます。
 

資料:
 ・  水銀を含有する魚貝類等の摂取に関する注意事項 (PDF
 ・ 「水銀」について (PDF
 ・ 水銀の分布と排泄 (PDF
 ・ 魚介類に含まれる水銀 (PDF
 ・ 妊婦と水銀中毒に関連した情報 (PDF
 ・ 厚労省:水銀を含有する魚介類等の摂食に関する注意事項について(Q&A)
 ・ 環境省:国立水俣病総合研究センター水俣病情報センター

医会ホームページより
 妊婦等における水銀を含有する魚介類の摂食に関する注意事項(H15.7)