日産婦医会報(平成13年2月)

クリニック開業顛末記−場所を求めて80件

日母幹事 相良 洋子


1.はじめに

 平成12年10月、都内のS区で開業しました。開業は“前”より“後”の方が大変なことは言うまでもありませんが、私の開業で大変だったことは、“場所を決めること”の一言に尽きます。開業場所が決まるまでが17カ月、決まってから開業までは37日でした。今回は開業までのエピソードで、心に残っていることを書いてみました。

2.第1の関門−不動産に対する不安

 開業を決めた私は、まず人づてにN社を紹介してもらいました。N社は大手建設会社の関連会社で、診療所の開業も多く手がけており、場所探しから、設計・内装、保健所の手続きなど一切の面倒をみてくれるという話でした。自分の考えている診療形態や規模、希望の場所など(女性が立ち寄りやすく、自宅からもそれほど遠くないM区を第1希望、Si区を第2希望)を伝えました。同時に別の不動産業者数社にも依頼し、さらに時間を見つけては、他の開業コンサルタント会社や、既に開業されている諸先輩のクリニックを訪ねて情報を収集しました。また、並行して資金計画も立て、資金繰りの算段などもしていました。
 場所探しを始めて8カ月目に入ろうとする頃、ようやくここならと思える場所が1つ見つかりました。そこは私が希望していたM区にあり、交通の便も良く、落ち着いた感じのビルでした。話はトントン拍子に進み、設計図もほぼでき上がり、保健所の内諾も取れ、いよいよ明日は契約というその日、“重要事項説明書”の説明を受けた私に1つの不安がよぎりました。そのビルには、既に倒産した某銀行を相手にした数億円の根抵当権がついていたのです。このご時世ですからよくある話ではあるのですが、法律に詳しい知人に相談したところ、某銀行の処遇によっては追い出されることもないわけではないとのこと、私はあっさり諦めて他を探すことにしました。

3.第2の関門−診療所検査基準

 この後も物件情報は毎日のように送られ、実際に何件も見て回りましたが、これといった場所は見つからず、時間は過ぎていきました。この間、もう1つネックになったのは、診療所検査基準の問題でした。母体保護法の指定基準は平成11年4月に改訂され、東京都では1床でよいことになりました。しかし、有床診療所であることに変わりなく、病室や窓の面積、避難設備などは一定の基準を満たしていなければなりません。特に、2階以上では専用階段が、3階以上では2方向に避難階段が必要という基準は、都区内の小さなビルではほとんど不可能です。細部は保健所の裁量によるらしいのですが、少なくとも私が希望したM区やSi区では、事実上1階でなければ難しいことが分かりました。

4.巡り合わせ

 やがて1年が過ぎ、M区、Si区の物件事情や診療所の検査基準が理解できた私は、当初の条件ではいつ開業できるか分からないという結論に至りました。その後は場所を広げ、業者も増やし、網を大きく広げて獲物を待つという心境でした。そしてその後に訪れたR社との出合いが、現クリニック誕生の礎になったのです。R社は、もともと診療所の継承斡旋会社で、歴史も浅いベンチャー会社でした。老舗のN社と違い契約関係は明確で、それなりの報酬も要求されますが、動きは早く、開業までのステップを具体的に呈示し、必要な業者を次々に紹介してくれました。これも巡り合わせでしょうか。契約後2カ月足らずで現在の場所が見つかり、あとはそれまでの準備が功を奏してか、僅か37日間で保健所の許可にまで至りました。

5.おわりに

 今回の経験から私が得た教訓をまとめてみます。
1) 業者の選定:こちらの意図を汲んでくれる、相性の良い業者が重要です。R社もそうですが、37日で開業できた背景にはいくつかの業者との幸運な出合いがありました。
2) 希望の場所が決まったら、早めに保健所に相談に行く。特に有床診療所を希望する場合はその基準を確認する。
3) 時間はかかるものと覚悟する。当時は場所が決まらないことに焦りを感じていましたが、今思うと、立地条件から保健所の裁量に至るまでの情報や事情を知って物件を見つける(妥協する?)には、17カ月は必要な時間だったのかもしれません。
 開業して3カ月が経ったいま、やはり先人の言うとおり、開業前の17カ月よりも開業後の大変さに追われています。