平成9年11月3日放送

産婦人科でのスカーレス・ヒーリングを目指して

北里大形成外科名誉教授 塩谷 信幸

 スカーレスヒーリング、傷跡を残さない手術は外科医の夢と言えます。

 通常、手術であれ怪我であれ、傷をすれば傷跡が残ります。抜糸の時はほとんど目立たなかったものが。数週間で赤く盛り上がって、いわゆるみみず腫れとなり、痒みを訴えたりするようになるのは皆さんも経験されたことでしょう。ところがこれも数カ月すると、ほとんどが自然に平らに白くなっていくことも気付かれたでしょう。然しこの白い平らな傷跡は、それ以上狭くなることも、消えることもありません。此れはどうしてでしょうか。

 それは高等動物の傷は、皮膚に限らず、すべて瘢痕組織によってくっつき治るからです。

 此処で傷がどう治るか見てみましょう。先ず切開した部位には出血が起こり、その血液が凝固し傷を塞ぎます。この際、血小板から種々の因子が放出され、フィブリンが形成され。此れが創面を接着します。又血小板の因子や、破壊組織から生ずる物質が刺激となり、マクロファージが誘導され、その放出する因子がさらに繊維芽細胞を引き寄せます。その繊維芽細胞がコラーゲンを産生して、フィブリンと置き変わり、瘢痕組織として創面に介在し、傷の治癒が完成します。

 このように高等動物では、皮膚が再生して治癒するのではなく、瘢痕組織によって傷がふさがり、その表面が外から見れば傷跡として見えるわけです。

 ですから医学的には、瘢痕組織としての傷跡は消えることもなければ、無くすことも出来ません。此れがなければ傷は又開いてしまいます。然し普通患者さんは、傷跡というとき、目立つ傷を言うのであって、たとへ瘢痕組織であっても、目立たなくなれば傷が消えたと考えるわけですから、説明にあたっては注意が必要です。

 ところでこのミミズ腫れの状態が、ひどく長引いて目立つようなとき、我々は肥厚性瘢痕と呼びますが、これとても半年、一年ながくても二年ぐらいと、時間が経つうちに平らに白くなっていくものです。

 時折、時間が経っても消退せずに、赤い盛り上がりが増殖を続ける場合我々はケロイドと呼ぶことにしています。この両者の違いは程度問題であって、必ずしも間にはっきりと線が引けるわけではありません。

 処で瘢痕組織は創傷治癒の主役ではあっても、余り目立っては困ります。それが肥厚性瘢痕と言い、ケロイドと言い、黒子のように影に隠れていてほしい存在が、どうして表にしゃしゃり出てしまうのでしょうか。

 実はほんとうのところ未だよくわかっていません。

 最近の分子生物学、細胞生物学の発展で、創傷治癒に係る因子が大分わかってきましたが、実際の生体においてどう働いているか、ましてそれが治療に結びつくところまでは来ていません。

 ケロイドや肥厚性瘢痕の発現に関して、現在言われていることを列挙してみますと。全身的な要因としては先ず人種の差はよく知られています。白人は傷が目立たないが、黒人は非常にケロイドになりやすい。我々東洋人はその中間であります。ある程度皮膚の色と相関関係がありそうです。又火傷などで肥厚性瘢痕が目立つ時期には、体の他の部位に傷をするとやはり肥厚性瘢痕になりやすいことも知られています。局所的な要因としては、先ず部位的には、肩とか首の付け根とか、動きが激しく皮膚に緊張のかかるところの傷は盛り上がりやすいことが知られています。又同じ部位の傷でも、しわに平行な傷は治りがよいが、しわを横切る傷はケロイド様になりやすいということもわかっています。

 肥厚性瘢痕やケロイドは原因がはっきりしていないので、予防や治療法も未だ決め手がないのが実情です。今挙げた要因についても、外科医がコントロールできるものと出来ないものがあります。

 その点を踏まえて、現在我々がとっている手段を御説明しましょう。

 先ず人種的な差は変えることが出来ません。又、ある程度体質も関係するようですから、手術に際しては、過去の傷跡を見て、ケロイド体質というか、傷の盛り上がりやすい患者の場合は、特に注意が必要です。

 産婦人科領域との関連で言えば、下腹部の手術に際して、切開せんの選び方が大事にになります。

 勿論手術の目的によってある程度切開線は規定されますが、傷の目立たない点では、横切開の方が縦切開よりも目立たなくなることはたしかです。勿論横切開でもある程度の傷は残りますから、可能なかぎり、下着で隠しやすいよう下の方に持っていっていたほうが良いといえます。

 次に大事なのは、真皮縫合、いわゆる中縫いの活用です。皮膚を閉じるにあたって、先ず皮下組織を寄せておくことも大事ですが、創面の緊張をとるために、我々は真皮層に細い糸をかけて、かっちりと寄せ、幾分皮膚表面が盛り上がるようにします。こうしておくと表皮の盛り上がりはいずれ平らになり、傷も余り広がらないですむのです。又中縫いをしておけば、皮膚縫合の縫合糸は、早く抜糸することが出来ます。抜糸が遅れて縫い跡が残ると、修正が困難になりますから、五日から一週間の間に抜くようにして下さい。

 抜糸後の処置としては、3Mテープによる圧迫固定が用いられます。此れは肌色をした紙の絆創膏で、皮膚の刺激が少なくて便利なものです。此れを傷口に直角に、皮膚を寄せるような感じではっていきます。此れを一カ月から三カ月ほど続けると、かなり肥厚性瘢痕の予防になります。

 処で一端肥厚性瘢痕やケロイドが発生したらどうするか。

 まず、術後数カ月は普通でも肥厚性瘢痕のピークの時期ですから、3Mテープをつづけます。そのほか局所の処置としてはステロイド含有のテープを貼ることも考えられます。最近ではシリコン膜を貼付することも試みられています。作用機序はよくわかりませんが数カ月続けるとある程度傷の逍退が期待できるようです。ステロイドの局注も治療法の一つにあげられます。ただし此れは痛みを伴うのと、使いすぎると皮膚の委縮が起こるので注意が必要です。

 最近では電子線による放射線療法が効果があるということがわかってきました。ステロイドや放射線療法は副作用をともなうので、やむを得ないときのみ、十分注意しながら用いることが大切です。

 又、瘢痕形成に関わる化学物質も多数明らかになってきています。今一番脚光を浴びているものの一つが、TGF-βです。此れがコラーゲン増殖をうながすというので、この拮抗剤を瘢痕のコントロールに用いる試みも始まっています。全身投与の薬としては、唯一リザベンがあります。此れは元来、喘息に用いられる薬ですが、肥満細胞の脱顆粒を押さえるということで、ケロイドに試みたところ、痒みなどの症状が軽減されることがわかりました。長期に服用してもほとんど副作用がないので、傷跡が気になるときは予防的に投与してもよいかと思います。

 処で始めに、高等動物では再生による治癒は望めない、総て瘢痕によって治癒すると申しました。これがイモリのような下等動物ですと、瘢痕は形成せず再生により治癒し、たとえ四肢の一部が欠損しても、完全に再生してしまいます。最近の研究で、哺乳動物でも、胎生期の初期だと、傷をしても瘢痕でなく、再生により跡形無く治ることがわかりました。此れにより将来、例えば脣裂など超音波により診断がつき次第、胎生期の初期に手術を行えば、理論的にはスカーレスヒーリングも不可能ではなくなりました。これは胎児外科と言い、今の頃リスクが多すぎるので、重篤な疾患で胎児の生命に危険があるときに限り、過去数例行なわれているだけです。しかし胎児期の創傷治癒の研究が進めば、そのメカニズムを成人の創傷治癒に適用して、スカーレスの手術も可能になるかもしれません。