平成14年7月1日放送
 生殖補助医療と倫理
 日本産婦人科医会副会長 新家 薫
 

 近年の医学の中で、目覚ましい発展を遂げているのが遺伝子の研究とクローン技術です。更に不妊症夫婦に行われている生殖補助医療の進歩も全く同じで、そのスピードがあまりにも速いために生殖補助医療の倫理的な検討が十分に行われないまま治療だけが先に一人歩きしている感があります。

 昭和58年わが国最初の体外受精による出生児が報告されて以来、平成11年の厚生科学研究「生殖補助医療に対する医師及び国民の意識調査に関する研究」の推計によると、約28万4千人が何らかの不妊治療を受けていると推測されています。また、日産婦学会の報告によると、平成10年までに約4万7千人の子どもが生殖補助医療により誕生しているといわれています。このような状況の下で、現在厚生労働省の「厚生科学審議会生殖補助医療部会」では、精子・卵子・胚の提供による非配偶者間生殖補助医療に関する法制化について検討中ですが、少なくとも精子・卵子・胚の提供によって、今まででは考えられないような家族関係や遺伝的に関係のない親子が作られることになります。更に、生殖補助医療をめぐって、いろいろな問題が発生しているのも事実です。産婦人科医師は、生殖補助医療に関する法的規制がないため、生殖補助医療を実施するに当たり、日産婦学会が定めた会告等を守ってきました。しかし、平成10年には、一会員が会告を無視して非配偶者間生殖補助医療を実施し、また、大阪地裁では夫の同意を得ないで実施したAIDにより出生した子について、夫の嫡出否認を認める判決が出ています。インターネット等で精子の売買や代理懐胎の斡旋などの商業主義的行為も見られます。これらの行為は、他の産婦人科医師だけでなく一般の人々に対して大変な不安を与えました。一産婦人科医師が自分の勝手な解釈で生殖補助医療を実施し、その夫婦の親族や生まれてくる子の幸せ、更にこれからの日本人の家族構成の変化など、あまり深く考えずに、ただ不妊夫婦の「子どもがほしい」という願いを叶えたにすぎません。

 以上のような背景を踏まえて、旧厚生省は平成10年10月に「厚生科学審議会先端医療技術評価部会」の下に「生殖補助医療技術に関する専門委員会」を設置し、生殖補助医療技術のあり方について約2年間、様々な角度から幅広い検討を行いました。即ち、夫婦以外の第三者の精子・卵子・胚を用いるAIDや体外受精、代理懐胎などの生殖補助医療のあり方や親子関係の確定のための法整備、商業主義の規制などの制度整備等を行うことについてです。この専門医委員会は平成12年12月に、インフォームドコンセント、カウンセリング体制の整備、親子関係の確定のための法整備等、必要な法整備が行われることを条件として、代理懐胎を除くAID,精子・卵子・胚の提供による生殖補助医療を認め、これに必要な制度整備を3年以内に行うことを求める報告書を発表しました。更にこの「報告書」を受けて、厚生労働省は平成13年6月より「厚生科学審議会生殖補助医療部会」を発足させ、報告書の内容に基づいた法制度を具体化するための検討に入りました。一方、法務省では「法制審議会生殖補助医療関連親子法制部会」を設置して、生殖補助医療により生まれてくる子の親子関係についての法整備に向けて検討に入っています。

 さて、非配偶者間生殖補助医療で精子の提供を受けることができる条件として考えられているのが、精子の提供を受けなければ妊娠できない法律上の夫婦に限って提供精子を受けることができるとし、更に卵子の提供を受けなければ妊娠できない夫婦に限って提供卵子を受けることができるとされています。精子や卵子の提供を受けなければ妊娠できないことの判定は医師の裁量とすると考えられています。法律上の夫婦に限ったのは、独身者や事実婚のカップルでは生まれてくる子の親の一人が初めから存在しないこと、生まれてくる子の法的地位が不安定であることなど、子の福祉の観点から問題が生じやすいことを考慮したものです。また、胚については提供を受けなければ妊娠できない夫婦は確率的にはほとんどいないと思いますが、この夫婦らは余剰胚の提供を受けることができるとされています。

 しかし、卵子の提供を受けなければ妊娠できない夫婦も、卵子提供が困難な場合には提供された胚の移植を受けることができるとされていることが問題です。ご承知のように現在の医学では、卵子を長時間保存することができないため、胚として保存するしかありません。また、卵子提供者は身体的リスクがあるためそれほど多くありません。あるとすれば自分の体外受精のために採取した卵子の余ったものを提供し、提供を受ける夫の精子とで胚を作って保存することが考えられます。この結果、余剰胚の提供を受けて生まれてくる子には遺伝的な父母と産んだ母及び社会的な父という異なった二組の親がいることになります。もし、この子が偶然出自を知った時に抱く心の葛藤とこの子を育てた社会的両親に対する不信感など、誰にも予測できない状況が発生する可能性があります。

 専門委員会の報告では、提供された卵子・胚により生殖補助医療で出産した人がその子の母であり、妻が夫の同意を得て、提供された精子・胚により生殖補助医療で出産した子は、その夫の子とするとしています。しかし、この胚の提供により生まれた子は、従来の親子関係とは異なった新しいタイプの親子を作り出し、この子の福祉の観点から本当に好ましいものか疑問です。将来必ず卵子の保存が可能になる時が来ると考えますし、単に卵子の提供が少ないあるいはあらたに提供者の身体を傷つけないですむという理由だけで、今、余剰胚の提供による生殖補助医療を認める必要性があるのか疑問です。

 精子・卵子・胚の提供者の匿名性は守られなければなりませんし、開示するとすればその内容は、提供者が開示することを承認した範囲内とすべきです。しかし、生まれた子の出自を知る権利も当然認められるべきであると考えています。ただ、提供者が開示することを認めた内容でその子が納得するかどうかはわかりません。更に詳しいデータを要求する可能性がなくはないと思います。したがって、提供者の匿名性と子の出自を知る権利との兼ね合いが問題です。あまり出自を知る権利が強くなると提供者は減ります。提供者のデータは「公的管理運営機関」が生まれた子の要請に応じて開示するために必要な一定期間保存することになりますが、近親婚を防ぐことも一つの目的です。開示する年齢も問題です。近親者同士が恋愛関係になってからでは遅すぎる場合も生じます。医療における倫理原則は個人の自己決定を認めるだけでなく、個人及びその家族に対し被害を防ぐ義務もあります。現在のように、十分なカウンセリング体制やフォローアップ体制が整っていない状況で生殖補助医療により生まれた子がその真相を知った時に、その子の心のケアを十分に行うことが果たして可能なのか。生殖補助医療の問題点は「不妊夫婦に子どもができる」だけではなくて、「その子が一生を幸せに過ごせるか」ではないでしょうか。生殖補助医療に係る全ての人々が、将来、幸せになれるように十分に考えなければなりません。