平成10年5月18日放送

日産婦総会-会長講演より

日産婦学会会長 矢嶋 聰

最近の、わが国の「がんによる死亡」は、年間27万人を超え、死亡者の3人に1人は「がん死」であるという時代を向かえております。

子宮癌死亡率については、この約10年間はほとんど変わらず、人口10万につき7.8程度で推移しています。死亡実数にしますと、年間約5,000人ということになります。

子宮頚癌検診の現状と問題点

わが国で子宮頚癌の住民検診が始まったのは昭和37年頃のことであります。

昭和58年からは、子宮頚癌検診は胃癌と共に、老人保健法の保健事業の一つとして行なわれるようになり、また、昭和62年からは子宮体癌の検診もこの事業の一つとして施行されるようになって今日に至っております。

しかし、本年度からは、ご存じのように、がん検診・がん予防健康教育などに関わる経費を一般財源化する、との国の方針が打ち出されたのであります。つまり、がん検診事業に対して補助金を支出するか否かは、それぞれの自治体の意思によって決められるということであります。このことは、がん検診を引き続いて全国的な規模で遂行して行く上では極めて大きな不安材料になるものと思われます。

ともあれ、厚生省の老人保健事業報告によりますと、わが国で平成7年度に行なわれた子宮頚癌検診の年間受診者は、約384万人でした。これは対象人口、すなわち30歳以上の女性の約15%に相当します。また、これによって発見された癌患者は約2,600人で、発見率は約0,07%ということになります。

子宮頚癌患者の進行度と検診受診歴との関係を調べてみますと、検診を受けたことがあるグループでは、上皮内癌が94%を占めていたのに対してまして、検診歴が無いグループでのその割合は30%に過ぎなかったのであります。

また、検診間隔と発見浸潤癌のリスクとの関係を見ますと、検診間隔を5年以上あけたものが浸潤癌で発見されるリスクを基準とした場合に、毎年受診しているものはそのリスクを約10分の1に減らすことができます。しかし、検診間隔が3年になれば、5年間隔の場合と同じリスクになってしまいます。

疫学的な調査では、「検診を受けなかったグループに比べて、受けたグループでは子宮頚浸潤癌が70〜90%減少する」ということになります。

住民検診の立場からいえば、対象者全員がほぼ2年以内に検診出来る体制を維持しなければ、所期の目的を達成することは難しいということになります。しかし現状では、概して受診率の高い地域あるいは年齢層ほど、受診者の中で占める“繰り返し検診者”の割合が高いのであります。いわゆる未受診者対策を講ずることが出来るか否かに住民検診の今後が掛かっている、といってもよいと思われます。

また、近年は20歳代から30歳代前半の子宮頚癌の罹患率が、急激に高まりつつありますので、この年齢層に対する対策も急がなければなりません。

一方、子宮頚癌の発生過程にHPVが関与していることは明らかであり、従いまして、将来的にはHPV16あるいは18などの高リスク型とそれ以外のタイプの感染例とを分け、これに細胞診所見を組み合わせたカテゴリーを作って、それによって強弱をつけたフォローアップ体制を作るのがよいと思われます。

子宮体癌検診の現状と問題点

厚生省の老人保健事業報告によりますと、平成7年度の子宮体癌検診の年間受診者は、約22万人であり、約240人の体癌が発見されており、発見率は0.11%となります。

体癌細胞診について述べますと、要精検とされたもの、つまり細胞診の結果が疑陽性および陽性であるものの組織診を見ますと、陽性とされたものは殆どが癌ですが、しかし、疑陽性と判定されたものの約75%は、癌や子宮内膜増殖症とは無関係なもの(正常)であります。

子宮体癌検診の問題点としましては、このような細胞診の診断精度の向上を図ることなどと共に、問題の核心とも言うべき、この検診の有効性の評価を急がなければなりません。

子宮体癌の発生・進展に関わる遺伝子の異常

子宮体癌の発生・進展には、多くの遺伝子、例えばK-ras,c-erbB-2,P53あるいはC-mycなどが種々の段階で関わっていることが分かっております。

最近では、高分化型腺癌症例の約半数に、10番染色体長腕の異常が見られるとの成績を得ております。したがって、この部位に存在する遺伝子が、この種の癌の発生に関与している可能性が高いと考えられるのであります。

一方、家族性癌についての研究成果も数多く報告されおります。

例えば、Li-Fraumeni症候群では、比較的若年で何らかの癌に罹患する率が高く、また、家族性乳癌・卵巣癌では、若年性の乳癌・卵巣癌の発生と深く関わっているとされています。さらにまた、家族性非腫瘍性大腸癌の家系では、大腸癌のみならず子宮体癌などを含む多発癌の発生頻度が高いとされています。

遺伝子を考慮した癌制圧の問題点

癌の遺伝子診断は、間もなく実用化の段階に入ろうとしております。

このことによって、先ず考えられることは、発癌の予測、癌の発見・検出への応用であり、また同時に、これによって得られた癌の広がりや個性に関する情報に基づく、治療の個別化ということであろうと思われます。

しかし、このことは同時に種々の問題を投げかけることになります。一つには、現時点では遺伝子診断の意味と技術の評価がまだ確立されていないということであります。次に問題となるものは、癌発生の予測が可能になることによって起こる、プライバシーあるいは人権などの侵害に関わる事柄であります。これは極めて重大な問題であり、特に、家族性癌の遺伝子素因を同定することに関しては、その利点と現実とをよくわきまえて対処することが必要となります。

少なくとも現時点では、評価については極めて慎重であるべきであって、むしろこうした素因を有する人々に対するカウンセリングシステムの確立などの対応策をこそ急ぐべきであろうと考えております。一方では、人々の価値観の多様化、特に死生観の変化にともなって、癌検診の考え方・受け止め方にも変化が見られるようになって参りました。総じてその方向は、集団から個へ、つまり画一性の見直しということになろうかと思われます。

こうしたことへの対策としては、先ず健康教育による癌の一次予防と二次予防、それぞれに向けての自助努力の動機づけを行なうことであろうと考えております。

検診の進め方としましては、生活習慣、前癌的な意味を持つ病変あるいは遺伝的素因などを考慮した、いわゆるハイリスクグループが集中的に管理できるようであることが望ましいに違いありません。

しかし、こうしたグループの特定はどうすれば出来るのか、また、これらに属する人達、特に遺伝的素因保有者の取り扱いをどうすべきかなどについての具対策は今後の検討課題であります。

間もなく向かえる21世紀には、人々の価値観の多様化が急速に進み、同時に「ヒトゲノム解析に象徴される科学」を中心とした第4次技術革命の波が、地球上を覆うことになるに違いありません。ヒトは、「遺伝子からの、個体の自立」という重い課題を負わされることになるのであります。こうした時代にあって、私たちは、癌検診に限らず、遺伝子の医療への導入に際しては、「生態系の中での個体あるいは社会の中での人間」についての議論を改めてし直す必要があるのではないでしょうか。