(1)がんの多様性の克服をめざしたプレシジョンメディスン(森 誠一)

1 )プレシジョンメディスンとがんの多様性

 「癌の多様性」は,婦人科癌のみならず,癌という疾患の最大の特徴であり,それが故に癌が「難病」であると言っても過言ではない.癌は遺伝子異常に起因し,その多様性もゲノム(ないしはエピゲノム)異常に基づくものである.癌の「プレシジョンメディスン」を「個々の癌のゲノム異常に対して,個別に対応しながら行う医療」と定義し,現状と,近未来(とは言っても数年後がせいぜいであるが)を展望する.

2 )シーケンシングの対象範囲

 急速に発達した次世代型シーケンシング(NGS)技術は,「クリニカルシーケンシング」として臨床に実装される段階に到達した.NGS が対象とするゲノム情報の範囲を図11 に示す.

 現状では,臨床での意思決定(Clinical Decision)に影響を与える(=アクショナブル)遺伝子変異が,数十から数百選ばれ,パネルとして検査される.しかし,数十の遺伝子と,その1 , 000 倍規模の全ゲノムのシーケンシングコストは10 倍も変わらない.シーケンシングコストが低下し続けていること,学問の不断の進歩により,これまで知られていなかった遺伝子(またはその他のゲノム情報)の臨床的重要性がいつ何時見つかるとも限らないことから,近未来では,パネルではなく,全ゲノム情報の取得に移行することになろう.

3 )ドライバー遺伝子とパッセンジャー遺伝子

 種々の要因によりゲノムDNA に損傷が生じるため,体細胞では細胞分裂のたびに変異が蓄積している(図12).大多数は,細胞増殖に影響を与えない中立的な変異であるが,中には細胞に対して「増殖の有利性」を与えるような「ドライバー変異」となるものがあり,その場合,細胞の癌化が決定づけられ,クローンとしての増殖を開始する.ドライバー変異の獲得以前に有していた変異は,増殖の有利性は与えないが,ドライバー変異が促進する細胞分裂に「乗っかって」増える(「パッセンジャー変異」).現在,臨床的にはドライバー遺伝子に生じた変異の一部がアクショナブルである.後述するように,腫瘍免疫において重要なネオ抗原まで考慮すると,これまで臨床的意義はないとされてきたパッセンジャー変異の一部も,将来,アクショナブルな変異として扱われるようになるかもしれない.

4 )がんの多様性と臨床における意思決定

 「癌の多様性」は,「ヒトの多様性」「個々の癌の多様性」「癌細胞の多様性」という,3 つの階層に分けると理解しやすい(図13)
 「ヒトの多様性」は,個人における生殖細胞系列のゲノム情報の違いから派生する.人によって癌の易罹患性が異なったり,薬物代謝や副作用に個人差があったりすることを指している.遺伝性癌の原因遺伝子に変異を有している患者は,遺伝カウンセリングやサーベイランス,予防切除の対象となる.例えば,相同組換修復に重要なBRCA 1 / 2 遺伝子変異を有する卵巣癌(おそらく子宮体癌の一部も)に対し,PARP 阻害薬の有効性が示されており,その変異の有無はコンパニオン診断として用いられるが,今後,その対象遺伝子は相同組換修復に関わるその他の遺伝子に拡張される.また,薬物動態や副作用に関わる遺伝子多型は,化学療法剤の選択や用量を決定するために有用である.
 「個々の癌の多様性」では,その背景に分子基盤の多様性がある.乳癌や前立腺癌では,ホルモン受容体の発現パターンなどによって,いくつかの分子型に分類され,治療法は分子型によって異なる.ERBB2のコピー数増幅に起因する過剰発現がTrastuzumab の適応となるように,アクショナブルな変異は分子標的治療の選択につながる.また,一部の大腸癌・子宮体癌のようにマイクロサテライト不安定性を有している癌は,免疫チェックポイント阻害薬の投与対象である.NGS では体細胞変異により生じた新たな自己抗原であるネオ抗原の情報も取得することが可能であるが,ネオ抗原に対する免疫反応は癌特異的であり,免疫治療の個別化に利用できる可能性がある.

 「癌細胞の多様性」とは,分化の階層性やクローン進化の結果,腫瘍内に多様な癌細胞が存在することであり,蓄積したゲノム・エピゲノム異常が生み出すものである.変異が蓄積する過程で,新たなドライバー変異や,ドライバー遺伝子における追加の変異を獲得することにより,癌細胞の増殖能や治療に対する反応性を変化させ得る.マイナーなクローンにおける変異を検出することで,再発予測や治療効果判定を正確に行えるようになるであろう.近年,急速に血液中の癌細胞由来の遺伝子配列を用いたリキッドバイオプシーが盛んに行われるようになったが,婦人科領域では,血液に限らず,腹水・分泌物・洗浄液など,リキッドバイオプシーの対象となり得る体液に事欠かないであろう.

5 )プレシジョンメディスンにおける変異の病原性診断

 プレシジョンメディスンを実装するクリニカルシーケンシングにおいては,検査室水準の検体調製,シーケンシング,情報解析を行う必要がある.その品質保証体制には,ヨーロッパ・日本を中心としたISO,アメリカの基準であるCLIA およびCAPLAPがある(図14).検出したバリアントの臨床的意義の解釈・病原性診断は,これまでの限られた専門家の経験や主観に基づく診断から脱却して,より客観的な診断を行う必要性が示されている(図15)
 クリニカルシーケンシングの結果,得られた変異情報の最終的な解釈並びに臨床対応の意思決定は,例えば,婦人科腫瘍学,臨床遺伝学,バイオインフォマティクスなどの専門家集団により開かれる“Molecular Cancer Board”などと呼称されるボードで行われる必要がある( 図14,15).生殖細胞系列変異においては,2015 年にAmerican College of Medical Genetics and Genomics(ACMG)により,客観的な病原性診断ガイドラインが示された.また,体細胞変異については,現時点で詳細なガイドラインは示されていないが,生殖細胞系列変異に準じた方法で客観的な判定が行われることになるであろう.

6 )プレシジョンメディスンの近未来に向けて

 シーケンシング技術は,基礎研究の範囲を脱し,臨床検査として実装されるフェーズとなった.技術的な成熟の一方で,知識がまだ不十分であり,実地診療で直ちに役に立つ可能性が高いとは言えない状況である.今後,知識を一層集積し,変異の病的意義が正確に診断できるように整備していくことが望まれている.