22.あまり教えてくれない人工妊娠中絶に関する同意について
産婦人科医療の中でも特に人工妊娠中絶に関する話題は、その時代における社会情勢や生命の選別の問題、個人の道徳・宗教観等に密接に関連し、各種団体・マスメディア等から格好の標的(過激な反中絶団体も存在します)となるため、実質タブーといえるでしょう。
その上、通常の妊娠・出産と違い、当事者同士でトラブルになっている割合が高いので、せっかく困っている患者さんを助けようと先生方が中絶処置を行っても、トラブルの矛先が医療者に向けられることは珍しくありません。
しかし、母体保護法指定医師はもちろんのこと、指定医でなくても日々、妊娠で悩んでいる患者さんに直面し奮闘されている現場の先生方にとって、何か助けになれればと考えまして、再度テーマ(実は運用が急に変わり、一旦取り下げました)として挙げさせていただきました。一般論だけでなく私見(提言)も含まれている内容ですので、ご了承ください。
さて、人工妊娠中絶は、母体保護法によって刑法である堕胎罪の違法性を阻却されことから、わが国での人工妊娠中絶の施行において、母体保護法の遵守は絶対要件となります。民法上は配偶者にも妊娠・胎児に対する権利を有するとされていることから配偶者が存在する患者さんの人工妊娠中絶を行う際には、母体保護法上、原則配偶者の同意が必須であることは従来から変わりありません。しかし、以下の2点が最近になって問題提起され対応が取られています。
- 配偶者が存在しない患者さんにおける人工妊娠中絶同意書の配偶者署名欄に 性的パートナーの署名は不要
母体保護法上は、未婚など事実婚を含む配偶者が存在しない患者さんにおける人工妊娠中絶同意書に性的パートナーの同意は不要です。しかし、現実の運用上では母体保護法ではなく民事トラブル回避の観点から配偶者の有無に関わらず、人工妊娠中絶を行う患者の当事者である性的パートナーからの同意取得を前提としている施設が少なくありません。
最近、このような施設に人工妊娠中絶治療を断られて、行き場を失った妊婦が出産直後に児を遺棄する事件報道が相次ぎました。児の虐待予防の観点から、このような施設では自施設で引き受けられない人工妊娠中絶患者を単に断るのではなく、責任持って然るべき施設に紹介するまで行うべきであり、研修会等での周知徹底を図っているところです。 - DV等で事実上婚姻関係が破綻している場合、人工妊娠中絶同意書の配偶者署名欄に配偶者の署名は不要
母体保護法における「人工妊娠中絶を行う際には配偶者の同意が必須」には、これまでにも幾つかの例外規定(緊急避難行為、配偶者が知れないとき等の14条2項に該当する場合など)がありますが、夫のDVにより同意取得困難事例の場合には、既存の例外規定にあたらないとされており、法令遵守と現場の狭間で対応に苦慮する母体保護法指定医師にとって懸案でありました。それが、2015年の東京地裁判例に基づいて、配偶者からの身体的暴力から逃れるために裁判所からの保護命令が発令されていることを確認できれば、配偶者からの同意がなくても母体保護法による人工妊娠中絶は可能とする考え方が認められつつあります。すなわち、母体保護法が改正されなくても、法解釈による判例によって例外事例が認められたり、実際の運用が変わったりすることがある一例となります。このような場合では、その経緯詳細だけでなく保護命令謄本の書類を確認したことも含めてカルテへの記載が重要となります。
加えて、強制性交等罪が成立する場合(令和2年11月厚労省事務次官通知)や妊婦が夫のDV被害を受けている等、婚姻関係が実質破綻しており、人工妊娠中絶について配偶者の同意を得ることが困難な場合(令和3年3月厚労省母子保健課長通知)にも、運用上は配偶者の同意は不要とされますが、妊婦本人だけでなく、より客観的に判断するために親や親族、配偶者暴力相談支援センター等からも、その実情を聴き取りカルテに記録することも望ましいものと考えられます。 - 今後の課題
先述のDV事例だけでなく、不倫相手と妊娠し配偶者の同意を求めないといけない事例や、母体保護法上でなくても未成年者の若年妊娠で親権者に言えずに親権者の同意取得が困難な事例などが、現在でも臨床現場では対応に苦慮しているといえます。
人工妊娠中絶に限らず手術や処置等の医療行為一般に対して、患者さんだけでなく家族や患者が未成年者であれば親権者、関係者からの治療同意も取得するのが、法的に必須ではなくても民事トラブル回避の上では一般的であると考えられています。一方で、「とにかく同意を取得する方が無難」ともいえず、性と生殖に関する健康と権利(SRHR: Sexual and Reproductive Health and Rights)の観点からは、「本来不要かもしれない同意を強要された」と今後訴えられる可能性も理論上は考えられます。よって、個々の患者さんの状況を十分に把握した上で、現場の指定医の裁量で適切な対応するのが望しく、理想的には、同意取得説明時にはカルテ記載だけでなく、相手の許可を得て「同意を強要していないことを証明する」録音・録画記録をしておくことも一法であります。そもそも、SRHRの観点やWHO勧告等を根拠に堕胎罪や母体保護法自体を根本的に廃止もしくは改正すべきという議論も存在しますが、これらの法改正は現実的ではない後述の事情が存在します。加えて法律(妊娠に関する配偶者が期待する権利と義務)として配偶者の同意が必要かどうかは社会的な議論によって判断されるべきであります。また、母体保護法は議員立法であることから、法改正には与野党含めた国会議員の賛成が必要とされ、世の中の社会問題解決の優先順位からすると、相当な社会問題化しない限り法改正は困難と推測されます。
加えて、母体保護法第14条には配偶者の同意に関する内容だけでなく、中絶の適応についての内容も含まれており、同じ条文中に存在する大変センシティブな内容である別の難題も一緒に議論の対象となると、合意形成は相当困難であることが予想されます。これらの背景には、過去の優性思想を反省し、平成の時代に入ってようやく優生保護法から母体保護法に改正され、ほとんどの産婦人科医は小児科医や遺伝診療医と変わらず、全ての人間は程度の差こそあれ変異や異常を有し、区別は存在しない科学的な考えのもとで、診療(中絶、NIPT, PGT等)を通じて女性の悩みに向き合っています。そして、中絶を受ける患者さんも相当苦悩しており、単に未婚だからとか胎児に障がいがありそうだからとかの理由で安易に中絶を選択するケースは少数であります。
経済的理由とは、生活保護法の適用を受ける程度を想定した内容が平成8年厚生事務次官通知に記載されていますが、実際の運用上では責任持って子どもを養育する経済力に対する不安を当事者が解決できないことを指していると推定されます。よって、障がいの有無に関わらず、どんな子どもでも経済的理由を最小限にとどめて産める選択も提示できるカウンセリング体制や社会的基盤を整備する努力の継続が重要とされます。
これらの背景から現状を評価しますと、どんな理由であれ女性だけで産まない選択を決定できる権利を獲得するよりも、配偶者なら産まない選択の責任くらいは共有してほしいという意見も根強いようです。すなわち、自身の身体のことに対する自己決定権よりも男女の営みの結果に対する共同責任に重きをおく社会情勢に現状大きな変化はなさそうです。ちなみに、経口避妊薬の発売により妊娠しない選択は、女性自身だけで決められる権利として国内でも認知されつつあります。また、諸外国と比較して国内において人工妊娠中絶は適切に管理されており、水面下で健康被害を受けている女性は、ほとんど存在しないと推測されます。