日産婦医会報(平成24年7月号)

平成23年3月11日午後2時46分

宮古市 松井産婦人科医院 松井 正之

 宮古市は岩手県沿岸のほぼ中央に位置し人口約6万人、海の恩恵を受けている港町である。あの日その海が牙をむいた。約530人の死者と行方不明者を一瞬のうちに飲み込んだ東日本大震災時の津波である。

 M9.0の地震発生。お産が終り、外来診察中であった。直後に停電。緊急時の発電機は無く診療器具も使えず診療を中止。3階建医院の屋上貯水槽(非常時の貯水槽でもあったはずが)の配管が壊れ水が噴き出している。直ぐに手分けして飲料水と洗面所の水を確保するも直後断水。外では「津波が来る!逃げろ!」の声が飛び交う。外に出てぎょっとした。家から100下った大通りをワゴン車が左から右へと流されている!そして、黒い水が瓦礫とともにひたひた留まることなく向かってくる。その後ろから車も…。これはまずいと思い入院患者を2階から3階へ避難させ、医薬品他、持ち出せる医療器具はすべて3階に運ぶ。エコー等はそのまま。1階への浸水を覚悟した。幸いにも水は病院外階段1段目で止まり自宅、病院内への浸水は免れた。

 丁度その頃、生後4日目の赤ちゃんが痙攣発作を起こした。県立病院まで車で10分。道は2本、街中を通る道は津波で通行不能は確実。残る1本は裏山のお寺の境内。停電時から携帯、災害時緊急電話が使えず県立病院に連絡も取れない。道が塞がれていれば2の山道、抱きかかえて行けばと出発。幸運なことに道から見える範囲で墓石は倒れておらず無事に搬送。帰院後、現況での分娩は不可能と判断。分娩等緊急を要する場合は県立病院へ向かうように外来玄関に掲示。入院患者に対して、水、食糧、暖房、照明を確保。その夜は余震が続いている中、ラジオから流れてくる情報に耳を傾けながら一睡もせずに朝を迎えた。

 12日朝、職員が泥まみれになりながら来てくれた。被災地域の情報も入り、入院患者の家も無事とのことで、退院とし診療所を閉鎖。午後からは、今後1カ月間の分娩予定者のカルテを持ち県立病院の応援に行く。

 13日午前3時頃、急に起こされた。近くに炎が見える。火事!一番恐れていたことが起った。道は瓦礫で塞がれ消防車も入れない。断水で水も出ない。阪神大震災時の火災の映像が浮かんだ。幸いにも消防車が出動、2軒全焼で鎮火。隣町では同様に火災が起きたが手の施しようがなく街そのものが無くなった。

 13日は朝から県立病院の応援に行く。14日から停電回復までは投薬のみ午前診療とし、午後からは避難所を回った。14日は震災後初の診療で十数人が来院。皆で無事を喜び合ったが津波で亡くなられた患者さんもいた。2日前に赤ちゃんを抱っこし笑顔で退院されたお母さんが母児共に流され亡くなられた話には胸が締め付けられる思いがした。ライフラインは、docomo 携帯は17日夜、水道は17日朝、固定電話、電気に至っては21日まで回復を待たなければならなかった。

まとめ

当日分娩中の妊婦さんが無かったのは幸いでした。緊急の際にはと手動式の吸引器は用意していたものの他は無く、震災後発電機を2台揃えました。プロパンガスは使えました。カセットコンロ、有事にと3台用意していた石油反射式ストーブは煮炊きにも使え役立ちます。

課題として

 今回保健所の対応が最も早く12日朝には来院、その後問屋さんが車で個々の施設を回り情報提供や御用聞きの役割をしてくれました。連絡網が確立するまでは人海戦術しかありません。特に当市のように他と隔絶された地域では被災の少なかった県立病院に機能を集約、市(保健課)県(保健所)も行政の壁を取り去り現場の声を最優先するためにも医療スタッフを効率よく動かすことが必要だと思います。今後かなりの確率で起こるであろうと言われている関東、東海、西日本地域での震災に対し、特に都市部においては行政を含めエリアを明確に分け拠点病院を中心に動く等、具体的な対策が必要と思われます。

 1年が過ぎ、沿岸地域は復興とはいえ手つかずの場所も沢山あります。漁業を含めた主軸産業の被害は甚大です。最近、やっと、妊娠する方が増えてきました。しかし、就労場が無く若者の人口流出も現実で、今後さらに当地域出生数の減少が危惧されます。