日産婦医会報(平成17年10月)

中越大地震を体験して

森平レディスクリニック 森平 仁


 当院は、小千谷市(人口約4万人、平成16年の出生数は315名)にある9床の有床診療所です。以下に、日本最高のガルを記録した震災に遭遇した者の顛末を記します。

1.その時(平成16年10月23日午後5時56分)

 ゴォー、ドン、ガタガタガタ、同時に停電、居間でテレビを観ておりましたが、倒れてくる整理棚と椅子を横倒しにしてかろうじて直撃を避けました。診療所に向かうにも、 暗闇のなか、ガラス類の散乱した居間で懐中電灯を探し出すのに手間取りました。5時59分の第2波の後、やっと自宅玄関から脱出し外壁にそって診療所に辿り着いたのは、6時03分の第3波後であったようです。2階のナースステーションに向って大声で呼びかけるも応答がなく心配していると、看護師が患者さんを囲んで駐車場に避難していることが判明、皆の無事を確認できました。幸い入院患者さんは褥婦1人、新生児1人、切迫流産1人と少なく、これがもし1週間前の多忙時であったらと思いました。約2時間その場で待機しましたが、震度5以上の揺れが11回あり、患者さんには面会の家族と帰宅してもらうことを決断しました。地震発生が勤務交代と、面会の時間帯であったことが不幸中の幸いでした。その時点で当分の間診療は無理と判断し、近隣で当院以外に唯一分娩を取り扱っている厚生連魚沼病院へ今後の受け入れ等のお願いの電話を致しました。一方診療所の玄関には駐車場の車内に待機している旨掲示し、スタッフとともに朝まで過ごしました。

2.夜が明けて(10月24日)

 夜明けと共に事の重大さが目に見えてきました。不思議と天気が良く穏やかで、昨夜の騒動は?と思うほどでした。
 最初の仕事は、魚沼病院へ出向き、今後の患者さんのことを院長にお願いすることでした。市内の道路は随所で段差ができ、マンホールは1m以上も飛び出しておりました。
 自宅建物はサッシ類がすべて動かず、玄関も閉まらず、建物、駐車場共にいたる所に亀裂、段差が生じてとても生活できる状態ではありませんでした。診察室はカルテ、薬剤が散乱し足の踏み場もなく、エコー本体などキャスター付きの物は使用可能でしたが、モニターテレビなど、固定されている物は飛んで使用不能でした。病棟の個室のドアは半数が動かなくなり、分娩台、手術台は移動し、いたる所で壁に穴を開けておりました。空調の室内室外機とも破損はひどいものでした。途方に暮れましたが、不思議とやる気は湧いておりました。

3.復旧にむけて

 24日には建物、設備の調査のために建設業者が来ました。 隣接市町村との道路も各所で通行できず、市外からの患者 さんは通院可能な病院に依頼いたしました。但し十日町方面は県立病院が使えず、開業の先生に頼みました。
 電話は通じており、問い合わせには24時間1人で対応し、処方とできる範囲の診察は妻を助手に数例行いました。その間の私の居場所は駐車場の車内か、診察ベッドで、11日間に及びました。来院患者さんには携帯電話番号を教え、24時間対応可能にしました。スタッフも全員被災しましたが、許す限り後片づけのために出勤してもらいました。電気が6日目、水道は8日目に復旧し、11月5日(13日目) には外来、病室共再開しました。
 待っていてくれたかのように2名の分娩を行い15日目に復旧したガスで、シャワーを浴びて無事退院できた時は、本当にうれしく感激いたしました。再開できたのは、スタッフをはじめ、県内外から来て寝食惜しんで復旧工事をしていただいた多くの業者の方、友達など人的な支援があってのことで、人と人のつながりの大切さを実感しました。

4.おわりに(震災時対策の提言)

病院:
 1)耐震構造の建物、
 2)数日間の飲料水等の確保、
 3)自家発電装置、
 4)トイレ下水道の充実、
 5)就業できるスタッフの確保、
 6)救急患者受け入れのスペース。
診療所:
 自院での安全満足な医療は不可能であり、支援してもらえる病院とあらかじめ話し合っておくことが大切。

 震災直後より支部の先生をはじめ多くの方々に励ましとお見舞いをいただき、誌面をお借りして深謝申し上げます。

医療対策部より

 医療と医業の項では、大災害の体験記を今後の万が一の参考のために、被災地の先生にお願いしております。今月は中越地震から1年に当たり、新潟県の先生から貴重な記録をいただきました。