平成14年12月9日放送
 第12回日本産婦人科医会全国支部医事紛争対策担当者連絡会より「羊水塞栓症」
 浜松医科大学学長 寺尾 俊彦 

 妊産婦死亡率は年々減少し、最近では1万分娩に1例以下の死亡率となり、漸く万が1の死亡率となりました。

 これは、妊娠中毒症や出血による死亡が減少したことによるものであります。しかし一方、羊水塞栓症や肺動脈塞栓症など産科的塞栓症が大きな位置を占めるようになり、約20%であります。

 これまでは、羊水塞栓症は稀な産科疾患であり、産科医も身近な疾患とは考えていませんでした。しかし、最近の診断法の進歩によって、実際にはもっと頻度の高い疾患であることが分かってきました。羊水塞栓症の母体死亡率は86%、周産期死亡率は50%と言われておりますので、医療訴訟の多い昨今、この疾患に無関心ではいられなくなりました。

 羊水塞栓症とは羊水が母体血中へ流入することによって引き起こされる疾患で、その病態は肺毛細管の閉塞を原因とする肺高血圧症、とそれによる呼吸・循環障害であります。その重篤性は心拍出量の低下、ショック、血管内血液凝固(DIC)、多臓器障害などの程度により決まってきます。

 典型的な症状は分娩中あるいは分娩後の呼吸困難と血圧低下であり、重篤なものは引き続き呼吸停止、心停止となります。しかし、軽症な場合も多数存在することが分かってきました。その初発症状は様々で、嘔気、嘔吐、悪寒、性器出血、胸部痛、痙攣、昏睡など多様であり、羊水塞栓症に固有な症状はありません。

 呼吸障害は無症状ともいえる程度のものから、重篤なものまであります。また、続発症状として20%にDICが見られます。DICによる子宮出血が初発症状ということもあります。大部分は破水後に起こりますが、羊水が血中に流入する時期は多様であります。また、症状が現れ出るのも、羊水流入直後から、分娩終了後かなり時間が経ってからのものまで様々です。したがって、分娩周辺期に何か異常が起こった場合には、常にこの疾患の存在を忘れてはなりません。予期せぬ時に突発するで、迅速な対応と正確な診断が必要です。

 羊水塞栓症は羊水が母体の血中に流入して起こりますが、羊水が血中に流入すると何故重篤になるのかは未だ分かっていません。経産婦に多く発生し、羊水の流入経路は子宮下節・子宮頸部と考えられます。破水後の過強陣痛、子宮の手術瘢痕部の解裂とか、潜在性子宮破裂、あるいは羊水穿刺、陣痛促進剤の投与、などがその誘因になる可能性もあります。

 羊水塞栓症の診断は、死後の剖検で肺組織に羊水成分、すなわち胎児扁平上皮とか胎脂などを証明するか、あるいは生存中ならスワンガンツ・カテーテルによって肺動脈から採血した血液の塗末標本で羊水成分を証明することによって行われてまいりました。しかし最近では、剖検でなくても生存中に末梢血で診断する方法が開発されました。血清中の亜鉛コプロポルフィリンまたはSTN抗原を測定する方法であります。亜鉛コプロポルフィリンは胎便由来の胎児特有のポルフィリンで、羊水中に存在します。亜鉛コプロポルフィリンは405nm(ナノ・メータ)の励起光に対し、580nmの大きなピークと630nmの小さなピークを特徴とした蛍光を発し、採取した血液の蛍光スペクトラムから診断出来、また高速液体クロマトグラフィーを用いると微量測定も可能であります。正常妊婦の血清中の亜鉛コプロポルフィリン値は 5pmol 以下ですが、羊水塞栓症では異常高値になります。また、羊水塞栓症の典型的な症状を示さなくても時にやや高い値を示すこともあります。これは恐らく羊水塞栓症のニアミス例と考えられます。分娩前後に異常な臨床症状や異常な出血が見られた場合には、念のために採血しておくことをお勧めします。輸液などの影響のないできるだけ早い時期に採血しておくことが必要です。なお、コプロポルフィリンは光により分解されますので、検体を測定する時まで暗いところに保存する必要があり、たとえば血清を入れた試験管を台所で使用するアルミ箔で巻いて冷蔵庫に保存し、後に必要に応じて測定します。

 また、腫瘍マーカとして知られているシアリルTN(STN抗原)も羊水塞栓症の血清学的診断に有用であります。この物質は、胎児の小腸のコブレット細胞から分泌され、羊水や胎便中の高分子ムチンに含まれております。48単位/ml をカット・オフ値として、それ以上の値を示したとき羊水塞栓症の可能性有りと致します。STN抗原は腫瘍マーカの測定と同様に検査機関を利用して測定することが出来ます。これが陽性であると判明したことによって医事紛争に巻き込まれなかったケースもございます。今後は分娩時のショック等も含め、羊水塞栓症が疑わしい場合には必ず測定することをお勧め致します。臨床的には羊水塞栓症と診断され、幸いにも救命できた症例について、米国では臨床的羊水塞栓症として登録するということが行われています。その登録基準は、
  1.急激な血圧下降または心停止、
  2.急激な低酸素、すなわち呼吸困難・チアノーゼ・呼吸停止など、
  3.ほかに説明の出来ない凝固障害または重篤な出血症状の出現、
  4.これらの症状が分娩中あるいは帝王切開時、
    あるいは人工妊娠中絶時、あるいは分娩後30分以内に起きたとき、
  5.観察された所見や症状が他の疾患で説明できないとき、

となっています。この診断基準に従って登録された臨床的羊水塞栓症9例の血液が日本に送られてきてSTN抗原を測定したところ、7例が陽性でした。STN抗原の測定が臨床的羊水塞栓症の診断に有用であるということが日米共同研究で明らかになりました。一方、不幸にして患者さんが死亡した場合にも、病理標本を作製する上でSTN抗原が有用であります。救命できなかった場合には家族の同意を得て必ず解剖すべきです。剖検では全身の標本について、酸性粘液多糖類アシッド・ムコ・ポリサッカライド染色と、STN抗原染色を行うことを推奨します。従来、剖検ではヘマトキシリン・エオジン染色法が一般的ですが、少なくとも肺の染色法にはヘマトキシリン・エオジン染色だけでは不十分であります。ヘマトキシリン・エオジン染色では胎便成分であるムチンが染色されないからであります。胎便のムチンを染色するためには酸性粘液多糖類の染色が必要です。酸性粘液多糖類の染色の代表的染色法としてはアルシャン・ブルー染色法があります。また、TKH?2というSTN抗原に対する抗体、モノクローナル抗体を用いた免疫染色法はアルシャン・ブルー染色法よりもムチンを一層よく染めることが出来ます。ヘマトキシリン・エオジン染色の結果、死因は出血とされていた係争中の症例においてSTN抗原染色を行った結果、死因が羊水塞栓症と診断できたケースを数例経験いたしました。羊水塞栓症は稀な疾患であり、私たち産科医にとっては、まさに万が一の疾患と考えてまいりました。しかし、そのニヤ・ミス例も多くあることが分かってきたのです。従来は生存中の診断やこのニヤミス例を診断することは殆ど不可能とされていました。最近では、母体血中のコプロポルフィリンや、STN抗原を測定することにより、それが可能になったのです。分娩前後に異常な経過が見られた場合には、血液を保存しておいて、検査することをお勧め致します。また、不幸にして死亡した場合の確定診断や、原因不明の妊産婦死亡の原因究明にはSTN抗原染色を行う必要がございます。私たちにご連絡下されば、検査できるよう手配致しますので、どうぞ遠慮なくご連絡下さい。