平成10年2月9日放送

最近の話題(1)産婦人科と血栓症

東京女子医科大学母子総合医療センター教授 中林 正雄

 

 今日は産婦人科と血栓症についてお話し致します。

1 血栓症の概念

 血栓症はこれまで本邦では比較的稀であるとされていましたが、生活習慣の欧米化などに伴い近年急速に増加しています。

 血栓症で臨床的に問題となるのは、深部静脈血栓症とそれによっておこる肺血栓塞栓症です。肺血栓塞栓症は深部静脈血栓症の5〜10%に発症する疾患ですが、一度発症するとその症状は重篤であり致命的となるので、急速な対処が必要となります。 

2 産婦人科における血栓症の特徴として

 妊娠中は血栓症の発症率は非妊婦と比べて5倍以上も高率であるといわれています。また婦人科手術は骨盤内操作が多いため一般外科手術に比べて血栓症は高率です。そのため産婦人科医にとって血栓症および肺塞栓症に関する知識は重要です。

3 産婦人科における血栓症の頻度

 産科領域における血栓症の頻度は0.1〜2.0%と報告されていますが妊娠中よりも産褥期はに多く発症します。

 帝王切開では経腟分娩に比べて7〜10倍も高率となります。血栓症の約4〜5%が肺塞栓症につながるといわれていますが肺塞栓症は発症すれば極めて重篤であり、最近では妊産婦死亡の10%以上を占めています。

 婦人科領域における血栓症の頻度についての報告は少ないのですが、東京女子医科大学産婦人科においては過去12年間5,800例の手術後、23例(0.34%)が血栓症と診断され、そのうち10例が肺塞栓症と確定診断されています。

4 血栓症のリスク因子

 一般的に血栓症のリスク因子としては血栓症の家族歴・既往歴、抗リン脂質抗体陽性、悪性腫瘍、心疾患(うっ血性心疾患、心筋梗塞、不整脈など)、高年齢(40〜70才以上)、重症感染症、長期安静臥床、血液濃縮(Hct : 40%以上)、肥満(BMI 26以上)、高脂血症、喫煙、長時間の手術などがあげられます。

 婦人科特有の疾患としては巨大子宮筋腫手術、卵巣癌手術、子宮癌手術、骨盤内高度癒着の手術、卵巣過剰刺激症候群(OHSS)、Pill服用者などがあげられます。

 産科特有の疾患としては高齢妊娠、重症妊娠中毒症、前置胎盤や切迫早産による長期ベット上安静、常位胎盤早期剥離、帝王切開術、著明な下肢静脈瘤などがリスク因子となります。

5 血栓症の診断

 臨床症状としては下肢の浮腫、腫脹、発赤、熱感、疼痛、圧痛などです。足首を背屈させると腓腹筋に疼痛を感ずるHoman徴候は大切な所見で陽性率は約40%です。手術後24時間以降、多くは離床し歩行開始した術後2〜3日に症状が出現します。

 確定診断は静脈造影ですが、最近は超音波ドプラー血流測定も有用です。 血栓症の診断がついた場合には、肺塞栓症の有無を検査することが重要です。

6 肺塞栓症の診断

 臨床症状として最も多い症状は突然発症する胸部痛と呼吸困難ですが、軽い胸痛から血痰やショックを伴う強いものまで多彩です。早いものでは手術後12〜24時間に急速に発症することもありますが、術後2〜3日に発症することが多いようです。鑑別疾患として重要なものに急性心筋梗塞があります。羊水塞栓症との鑑別は臨床症状に差はないので、発症時期により鑑別することができます。

 胸部X線写真は肺塞栓症の診断に極めて重要です。心陰影の拡大と横隔膜の挙上がしばしば認められ、肺血管変化としては、肺門部肺動脈の膨隆と末梢血管影の消失により肺野は明るく見えます。

 肺塞栓症に特有な心電図変化はないのですが、右室負荷、頻脈、不整脈などが見られます。心筋梗塞との鑑別が大切です。

 血液ガス、血液検査としては肺動脈圧は上昇しPaO2の低下と、多呼吸のためPaCO2の低下が見られます。  血液凝固線溶系マーカーとしてはAT III低下、FDP、D-dimer上昇が認められることが多いのですが、特異的ではありません。

 核医学検査として肺血流スキャンで血流欠損が見られ、肺換気スキャンに異常がなければほぼ診断は確定です。 肺動脈撮影は塞栓の部位と大きさをみるうえで最も信頼度の高い検査法であり、血栓による血管内の陰影欠損、血流遮断、壁不整などの所見が認められれば診断は確定します。

7 血栓症の予防ですが血栓症の予防が肺塞栓症の予防につながります。

 一般的予防法は手術後は全例に行うことが望ましいのですが、早期離床、下肢の挙上、マッサージ、足首の背屈運動、十分な補液:1日 1,500〜2,000ml/日は必要です。

 薬剤による予防はリスク因子がある場合に行います。ヘパリンを術後12時間より5,000単位を1日2回皮下注、3〜5日間投与し、ワーファリンはトロンボテスト30%を目標とします。

低用量アスピリン療法やAT IIIの補充療法も有効です。低分子ヘパリン療法は術後12時間より75IU/Kg/日を1日2回皮下注し、3〜5日間投与します。

 リスク因子を有する婦人科手術およびリスク因子を有する帝王切開後は予防的ヘパリン療法が勧められます。しかしながら通常のヘパリンは出血という副作用があるので、欧米では出血の副作用の少ない低分子ヘパリン(フラグミン )が術後に使用されています。しかし本邦ではDICと体外循環にのみ適応となっています。

 ワーファリンはリスクが高い場合に、ヘパリン投与後1〜3ケ月間投与します。トロンボテスト30%を目標とし、出血傾向の出現に注意します。

8 血栓症の治療

 血栓症のみであり、肺塞栓症の合併していない場合は抗凝固療法を行います。ヘパリン15,000〜20,000単位/日の持続点滴を3〜5日間施行後、ワーファリン投与をトロンボテスト20〜35%を目標にして3〜6ケ月間行うのが一般的です。発症直後であれば血栓溶解療法は有効です。

9 肺塞栓症の治療

1)呼吸循環動態の改善

 酸素吸入、昇圧剤、中心静脈圧測定などにより、低酸素血症、ショック、胸痛の改善を行います。

2)薬物療法としてはヘパリン、ワーファリンによる抗凝固療法、塩酸チクロピジンやジピリダモールによる抗血小板療法、ウロキナーゼ、組織プラスミノーゲンアクチベーターによる血栓溶解療法があります。

 外科的治療として肺塞栓症でショックや低血圧、乏尿が持続する場合は人工心肺を用いて直達式肺塞栓除去術を行います。しかし外科的治療の適応については一定の見解は得られていません。現状では保存的治療が無効の場合にのみ考慮されるのもでしょう。

10 おわりに

 血栓症および肺塞栓症は欧米では術後合併症として極めて重要視されていますが、本邦においては近年増加しているにもかかわらず、その知識の普及は患者および医師の双方にとって十分とはいえません。

 血栓症、肺塞栓症の早期診断はまず本症を疑うことが日常診療上最も重要です。肺塞栓症が疑われた場合は高次医療センターへの速やかな搬送、循環器専門医、麻酔科医、胸部外科専門医などによる集学的治療が必要です。

 しかし肺塞栓症は臨床症状が出現してから、十分な検査をする間もない短時間に急死したり、または不可逆的多臓器障害を発症することもあります。このような不幸な転帰をとった場合、家族にとっては手術後の突然の出来事であり、医師に対する不信感を持つことになるのはやむを得ないことです。そのため手術記録、術後経過などの記載、異常事態発生時の状況、医療スタッフの対応などの詳細な記録は必須です。さらに家族に対しては本症について十分に説明し、理解を得ることが重要と考えます。