11.妊産婦メンタルヘルスケアの重要性について

身体的ケアから精神的なケアへ

 2000年9月、147の国家元首を含む189の加盟国代表の出席の下、国連ミレニアム・サミットがニューヨークで開催され、21世紀の国際社会の目標として国連ミレニアム宣言が採択され、8つの目標が掲げられた。その一つが「妊産婦の健康改善」であり、具体的目標として2015年までに妊産婦死亡率を1990年の水準の4分の1に削減することとなった。日本産婦人科医会では2010年より妊産婦死亡報告事業を開始し、死亡事例の報告、事例の評価、再発防止のための提言の発出を通じ、妊産婦死亡の削減に取り組んできた。そのような取り組みもあって、1990年の妊産婦死亡率8.59は2014年に2.79に低下し、現状では年間40-50件程度にまで減少した。この結果、現状における妊産婦死亡率は世界でもトップクラスとなり、世界で最も安全にお産ができる国になった。
 そのような中、2005~2014年の10年間に東京23区で発生した妊産婦異状死の調査で、妊娠中23例、産褥1年未満40例の合計63例の自殺が確認された(1)。東京23区の自殺による妊産婦死亡率は計算上100,000分娩あたり8.7であり、日本の妊産婦死亡統計の妊産婦死亡率(2014年は2.78)に比して大幅に高いことが判明した。本来の妊産婦死亡には自殺による死亡も含まれるが、わが国の統計ではそれを把握するシステムが不十分であることを反映すると考えられ、わが国の妊産婦死亡統計の信頼性を揺るがすことにもなり兼ねない状況であることが示された。さらに、この調査によると自殺した妊婦では約4割がうつ病または統合失調症であり、褥婦では6割が産後うつ病をはじめとする精神疾患であったことから、メンタルヘルスにおけるケアの不足とその充実の重要性が示された。

 一方、わが国では子どもの虐待件数が増加しており、虐待と母親の精神疾患との関連が報告されている。社会保障審議会の専門委員会の報告によると、子ども虐待による死亡事例のうち心中以外の虐待死はここ数年、年間40~60例と報告されているが、そのうちの40~60%は0歳児であり、しかもその半数近くが生後1か月未満の事例である。加害者のほとんどは実母であり、未婚、若年、望まない妊娠などがリスク因子となっている。精神疾患についてみると、平成21年の第5次報告以降の統計で、心中以外の虐待死の約3割、心中による虐待死(未遂を含む)の約半数の母親に精神疾患が診断されている。このような側面からも、妊産婦のメンタルヘルスケアの充実が重要な社会的課題であることがわかる。

妊娠期からの関わりの重要性

 日本における周産期精神障害の頻度は、多施設共同研究により、最も多いうつ病で妊娠中5.6%、産褥期5.0%と報告されている(2)。周産期のうつ病や産褥精神病は、自殺・虐待・子殺しなどの重要なリスク因子であり、できるだけ早期に発見して適切に介入する必要がある。一方、産後にうつ病をはじめとする精神疾患を発症する女性の90%以上が、妊娠中の問診やEPDSなどのスクリーニングで精度よく抽出できることが知られている。英国国立医療技術評価機構(NICE)の産前産後のメンタルヘルスガイドラインに提唱された包括的2項目質問票を用いることで検出率94%、特異度63%でうつ病が検出される。また、不安障害についても同様にNICEガイドラインの2項目質問票で評価可能である。
 また最近では、周産期の母親の心理状態が将来の子どもの情緒的および神経的発達にも大きな影響を与えることが明らかになった。2003年、O’Connorらは妊娠中の母親の不安が生後81か月の子どもの認知機能や情緒的発達に影響を及ぼすことを報告した。妊娠中の不安は、産後の不安や産褥うつ病よりも子供の発達に与える影響が大きかった(3)。また友田は虐待を受けた子どもの脳には、虐待の種類や時期に応じて特有の器質的変化が起こることを報告している(4)。さらに、乳幼児精神医学の領域では、母親と乳幼児の関係の中に、その母親が子供だった頃に自らの母親との間に起こっていた葛藤が再現され、その葛藤が虐待や愛着障害に結び付く世代間伝達の存在が指摘されている(5)。
 このように周産期の母親の精神的な問題は、すでに妊娠中から子どもに影響を与えており、またさまざまな形の虐待や愛着障害という問題を通して、将来の子どもの健全な成長・発達を妨げる可能性がある。しかし、友田の報告した虐待による脳の器質的変化や乳幼児精神医学が指摘する世代間伝達は、できるだけ早い時期に適切に介入することにより、その影響を最小限に抑え、修復することができることもまた証明されている。
このように周産期の母親の精神的な問題は、自殺・虐待・子殺しなどの問題のみならず、将来の子どもの発達にも重大な影響を及ぼす可能性がある。一方、リスクを早期に発見して適切なケアに結び付けることで予防できる可能性があり、またそのために妊娠中のスクリーニングが有効であることが示されている。さらに我が国では周産期の精神障害やその影響についての一般社会の認識が不十分であるが、知識があることは早期発見への近道であり、妊産婦やその家族、また一般社会に対して啓発活動を行っていくことも重要である。
 このような意味で妊娠中からの関わりは極めて重要であり、今後は周産期管理の中に精神面でのスクリーニングや啓発活動を取り入れ、早期からの介入に結び付けていくための体制を整えていく必要がある。

参考文献
1. 竹田 省;妊産婦死亡“ゼロ”への挑戦、日産婦誌 Vol.68.No.9, pp1815-1822, 2016
2. Kitamura T., Yoshida K., et al, Multiple prospective study of perinatal depression in Japan: incidence and correlates of antenatal and postnatal depression. Arch Womens Ment Health 9:121-130,2006
3. O’Connor T.G., Heron J., et al, Maternal antenatal anxiety and behavioral/emotional problems in children: a test of a programming hypothesis. Journal of Psychology and Psychiatry 44:7, 1025-1036, 2003
4. 友田明美:新版いやされない傷:診断と治療社(東京)2012
5. 渡辺久子:新訂増補 母子臨床と世代間伝達:金剛出版(東京)2016